剣薫現代短文【茜さす―紫―】
例えば。
その日限りの夕焼けに染まった空。
誘うように揺らめく陽炎。
如雨露から注がれる水のカーテンの奥に見える虹。
それは誰かに伝えたくなる景色で。
そう、出来るなら貴方と並んで見たい景色で。
私はいつも決まって貴方の姿を探すけれど、どうやらまだ貴方と並んで生きることは出来ないようです。
ねぇ、ほら見て。
世界は確かに目の前にある。無常の輝きを放って。
ねぇ、ほら聞いて。
歓びに震える心臓の音を。
確かに今、私は生きている。貴方もきっと生きている世界で。
《茜さす》―紫―
夢は何処から来たのか。
それは突然に始まり突然に終わる。
手が届きそうで届かない場所にあるもの。
あれは夢だったのか。
夕暮れのにわか雨。
茜色が柔らかに街に渡りゆき、道行く人の影は長くアスファルトに落ちた。
梅雨の間に訪れた久々の快晴の日だった。
近所のあばあさんが庭先に咲いたからと言って紫陽花を分けてくれた。
落ち着いた水色のほわんとまぁるい、少し大きな紫陽花。
ティッシュに水分を含ませて、さらにその上からアルミホイル、新聞紙と重ねて茎の切り口に巻き、最後に輪ゴムできっちりと巻いた。
切り取ったことを申し訳なく思いながらも、居間に飾ろうか、玄関に飾ろうか、と浮き足立って帰路に着いていた。
そんなときのにわか雨。
空は茜色に明るいし、音を生みながら体に当たって跳ねる雨粒はむしろ心地よいものだから、焦ることもなく夕陽と雨を受けながら歩いていた。
たしか、晴れているのに雨に降られるこんな状態を『狐の嫁入り』と言わなかっただろうか。
そんなことを考えながら。
その時だった。
「傘も差さないで、風邪ひきますよ?」
少し高いけれど、胸に低く響くきれいな声だった。
スーツを着て、脇に紫の紫陽花を抱えていた。
(あ、紫陽花おそろいだわ)
「これ、よかったら使って下さい。安物ですけど」
そう言って透明のビニール傘を差し出したその人の、白くて長いきれいな手の薬指で銀の指輪が夕陽に煌めいた。
手の主の顔を見上げてみると、眉尻を下げてその人は微笑んでいて、柔らかく細められた目の色は紫陽花と同じ紫だった。
その色が珍しく、それよりも美しさに魅せられて見入っていたけれど、はっとして今の状況に気づく。
「あの、でもっ」
断ろうと口を開き、しどろもどろになっているうちにその人は強引に傘を私の手に握らせた。
「それじゃ、風邪ひかないように」
半ば押し付けられる形でビニール傘を受け取った。
その際、抱えていた紫陽花を危うく落としそうになって慌てていると、傘をくれたスーツの男性は私が歩いてきた道を走っていった。
急いで振り返ったけれどすでに後ろ姿しか見えず、その人の少し伸びた短髪が茜色に染まって目に焼き付いた。
そのうちに雨は止み、開かれたままの傘のビニールの向こうのその先に夕陽が沈んでいく。
傘の持ち手に感じる熱はあの人のものなのか、自分のものなのか。
とりあえずこの傘を返して、言いそびれたお礼を言いたいのだけど、さて、どうしよう。
悶々と考えて歩いているうちに家に着き、木造の決して新しくはない家の玄関戸を開けた。
誰もいない家に立て付けの悪い戸の音が濁音で響いた。
薄暗い家の中には肌にまとわりつくようなどんよりとした空気が停滞していた。
洗面所に直行し、濡れた服を着替える。
洗面台の鏡に映った自分の薄いピンクのシャツは雨に濡れていて、その下の黒いキャミソールが透けて見えていた。
(…あの人にも見えてたのかしら)
そう考えて少し恥ずかしくなる。
部屋着に着替えて、まず最初に紫陽花を花瓶に生けた。
曇りがちなこの時期に少しでも自分や知人の気持ちが明るくなるように。
そう思って花瓶は玄関の靴棚の上に置くことにした。
訪れる人を待つように、控えめだけれど立派に水色が咲き誇っている。
(あの人はあの紫陽花をどうしたんだろう)
傘立てに収まって雫を落としながら佇むビニール傘に目を移した。
指輪をしたきれいな白い指が頭をよぎる。
確か、紫は高貴な色じゃなかっただろうか。
分相応な優しい瞳を思い出した。
束の間のことだったから夢のようにも思う。
茜色の夕立の中、出逢った人。
けれど玄関の隅で雫を落とすビニール傘は現実のものだった。
(傘、いつか返せたらいいな)
すっかり夕闇に包まれた外の世界で、梅雨らしいじっとりとした雨が降っていた。
紫陽花の水色の花弁をひと撫でして玄関を後にした。
どうか明日は雨が降りませんように。
あの人に傘を返すまでは、どうか。
あの人が雨に降られて濡れることがありませんように。
茜さす紫
雨粒に紫陽花
染まる瞳
***
ちゃんちゃん♪
多分つづく。そんな突発文でした。
その日限りの夕焼けに染まった空。
誘うように揺らめく陽炎。
如雨露から注がれる水のカーテンの奥に見える虹。
それは誰かに伝えたくなる景色で。
そう、出来るなら貴方と並んで見たい景色で。
私はいつも決まって貴方の姿を探すけれど、どうやらまだ貴方と並んで生きることは出来ないようです。
ねぇ、ほら見て。
世界は確かに目の前にある。無常の輝きを放って。
ねぇ、ほら聞いて。
歓びに震える心臓の音を。
確かに今、私は生きている。貴方もきっと生きている世界で。
《茜さす》―紫―
夢は何処から来たのか。
それは突然に始まり突然に終わる。
手が届きそうで届かない場所にあるもの。
あれは夢だったのか。
夕暮れのにわか雨。
茜色が柔らかに街に渡りゆき、道行く人の影は長くアスファルトに落ちた。
梅雨の間に訪れた久々の快晴の日だった。
近所のあばあさんが庭先に咲いたからと言って紫陽花を分けてくれた。
落ち着いた水色のほわんとまぁるい、少し大きな紫陽花。
ティッシュに水分を含ませて、さらにその上からアルミホイル、新聞紙と重ねて茎の切り口に巻き、最後に輪ゴムできっちりと巻いた。
切り取ったことを申し訳なく思いながらも、居間に飾ろうか、玄関に飾ろうか、と浮き足立って帰路に着いていた。
そんなときのにわか雨。
空は茜色に明るいし、音を生みながら体に当たって跳ねる雨粒はむしろ心地よいものだから、焦ることもなく夕陽と雨を受けながら歩いていた。
たしか、晴れているのに雨に降られるこんな状態を『狐の嫁入り』と言わなかっただろうか。
そんなことを考えながら。
その時だった。
「傘も差さないで、風邪ひきますよ?」
少し高いけれど、胸に低く響くきれいな声だった。
スーツを着て、脇に紫の紫陽花を抱えていた。
(あ、紫陽花おそろいだわ)
「これ、よかったら使って下さい。安物ですけど」
そう言って透明のビニール傘を差し出したその人の、白くて長いきれいな手の薬指で銀の指輪が夕陽に煌めいた。
手の主の顔を見上げてみると、眉尻を下げてその人は微笑んでいて、柔らかく細められた目の色は紫陽花と同じ紫だった。
その色が珍しく、それよりも美しさに魅せられて見入っていたけれど、はっとして今の状況に気づく。
「あの、でもっ」
断ろうと口を開き、しどろもどろになっているうちにその人は強引に傘を私の手に握らせた。
「それじゃ、風邪ひかないように」
半ば押し付けられる形でビニール傘を受け取った。
その際、抱えていた紫陽花を危うく落としそうになって慌てていると、傘をくれたスーツの男性は私が歩いてきた道を走っていった。
急いで振り返ったけれどすでに後ろ姿しか見えず、その人の少し伸びた短髪が茜色に染まって目に焼き付いた。
そのうちに雨は止み、開かれたままの傘のビニールの向こうのその先に夕陽が沈んでいく。
傘の持ち手に感じる熱はあの人のものなのか、自分のものなのか。
とりあえずこの傘を返して、言いそびれたお礼を言いたいのだけど、さて、どうしよう。
悶々と考えて歩いているうちに家に着き、木造の決して新しくはない家の玄関戸を開けた。
誰もいない家に立て付けの悪い戸の音が濁音で響いた。
薄暗い家の中には肌にまとわりつくようなどんよりとした空気が停滞していた。
洗面所に直行し、濡れた服を着替える。
洗面台の鏡に映った自分の薄いピンクのシャツは雨に濡れていて、その下の黒いキャミソールが透けて見えていた。
(…あの人にも見えてたのかしら)
そう考えて少し恥ずかしくなる。
部屋着に着替えて、まず最初に紫陽花を花瓶に生けた。
曇りがちなこの時期に少しでも自分や知人の気持ちが明るくなるように。
そう思って花瓶は玄関の靴棚の上に置くことにした。
訪れる人を待つように、控えめだけれど立派に水色が咲き誇っている。
(あの人はあの紫陽花をどうしたんだろう)
傘立てに収まって雫を落としながら佇むビニール傘に目を移した。
指輪をしたきれいな白い指が頭をよぎる。
確か、紫は高貴な色じゃなかっただろうか。
分相応な優しい瞳を思い出した。
束の間のことだったから夢のようにも思う。
茜色の夕立の中、出逢った人。
けれど玄関の隅で雫を落とすビニール傘は現実のものだった。
(傘、いつか返せたらいいな)
すっかり夕闇に包まれた外の世界で、梅雨らしいじっとりとした雨が降っていた。
紫陽花の水色の花弁をひと撫でして玄関を後にした。
どうか明日は雨が降りませんように。
あの人に傘を返すまでは、どうか。
あの人が雨に降られて濡れることがありませんように。
茜さす紫
雨粒に紫陽花
染まる瞳
***
ちゃんちゃん♪
多分つづく。そんな突発文でした。
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